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2005年6 月 5日 (日)

コメント

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ちゅうすけ

そうなんです。竹平寮は、永く大蔵省財務局の管轄下にありました。

江戸幕府のご用地で、長谷川平蔵が死んで30年ほどのちに、火盗改メの役宅になったと、松平太郎著『江戸時代制度の研究』に書かれています。

その後、明治のいつごろかから、終戦まで、憲兵隊の下士官用の宿舎にあてられました。

戦後は、しばらく、進駐軍に雇用された要員の宿舎として使われ、のち、竹平寮となりました。

どの時点で、砲弾が埋められたのでしょうね。

YanaKen

うわ、「鬼平」エキスパートの方からの出張コメント、どうも恐れ入ります。

>長谷川平蔵が死んで30年ほどのちに、火盗改メの役宅になったと、松平太郎著『江戸時代制度の研究』に書かれています。

 実際に火盗改メの役宅となっていた時期があったのですね。ありがとうございます。その本、買ったら高いらしいので(^^;、手帳にメモって図書館で探してみます。

>どの時点で、砲弾が埋められたのでしょうね。

 維新から大隈重信邸になるまで、いったいこの土地がどういう状況だったかが1つのポイントかな……というところで手持ちの資料はタネ切れ気味ですが、宿題の1つとして念頭には置いておこうと思ってます。

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