前回の記事でも触れた、
「明治時代の砲弾発掘」事件の現場となった土地(大蔵省竹平寮跡地)の来歴
……についてなのですが、その後いろいろ新たなデータも集まってきたのでさっそく昨日反映しました。
サマリーをあげておくと、
・なんとこの地点は、「鬼平犯科帳」で「長谷川平蔵の清水門外の役宅」としてしばしば登場した、まさにその場所であった。
→長谷川平蔵は実在するものの、ここが役宅というのはフィクションですし、時代もちょっと違うんで、鬼平サンやその部下が埋めたわけじゃなさそうですが……それにしても、なかなか面白い「偶然」ではあります。これだから江戸の歴史は面白いっていうか。
・実はこの土地は今回のビル工事前に、全域にわたって遺跡発掘調査が行われていた。
→しかし、そのときはさらに地下深くに砲弾が眠っているなどとは気づかなかったらしい。まあ、しかたがないとは思いますが、調査にあたった人たちは複雑な気分なんじゃないかと……。
そういうわけで、あらためてまとめた記事は下記にあります。
●「宝田橋」