前回の記事でも触れた、
「明治時代の砲弾発掘」事件の現場となった土地(大蔵省竹平寮跡地)の来歴
……についてなのですが、その後いろいろ新たなデータも集まってきたのでさっそく昨日反映しました。
サマリーをあげておくと、
・なんとこの地点は、「鬼平犯科帳」で「長谷川平蔵の清水門外の役宅」としてしばしば登場した、まさにその場所であった。
→長谷川平蔵は実在するものの、ここが役宅というのはフィクションですし、時代もちょっと違うんで、鬼平サンやその部下が埋めたわけじゃなさそうですが……それにしても、なかなか面白い「偶然」ではあります。これだから江戸の歴史は面白いっていうか。
・実はこの土地は今回のビル工事前に、全域にわたって遺跡発掘調査が行われていた。
→しかし、そのときはさらに地下深くに砲弾が眠っているなどとは気づかなかったらしい。まあ、しかたがないとは思いますが、調査にあたった人たちは複雑な気分なんじゃないかと……。
そういうわけで、あらためてまとめた記事は下記にあります。
●「宝田橋」
そうなんです。竹平寮は、永く大蔵省財務局の管轄下にありました。
江戸幕府のご用地で、長谷川平蔵が死んで30年ほどのちに、火盗改メの役宅になったと、松平太郎著『江戸時代制度の研究』に書かれています。
その後、明治のいつごろかから、終戦まで、憲兵隊の下士官用の宿舎にあてられました。
戦後は、しばらく、進駐軍に雇用された要員の宿舎として使われ、のち、竹平寮となりました。
どの時点で、砲弾が埋められたのでしょうね。
投稿情報: ちゅうすけ | 2005年6 月 6日 (月) 05:54
うわ、「鬼平」エキスパートの方からの出張コメント、どうも恐れ入ります。
>長谷川平蔵が死んで30年ほどのちに、火盗改メの役宅になったと、松平太郎著『江戸時代制度の研究』に書かれています。
実際に火盗改メの役宅となっていた時期があったのですね。ありがとうございます。その本、買ったら高いらしいので(^^;、手帳にメモって図書館で探してみます。
>どの時点で、砲弾が埋められたのでしょうね。
維新から大隈重信邸になるまで、いったいこの土地がどういう状況だったかが1つのポイントかな……というところで手持ちの資料はタネ切れ気味ですが、宿題の1つとして念頭には置いておこうと思ってます。
投稿情報: YanaKen | 2005年6 月 6日 (月) 14:19